10月16日 宮城県大郷町 台風19号各地に傷跡 ”震災の教訓は生かされたか?”

DSC_0985.JPG台風19号が各地に大きなつめ跡を残した。全国で75人、宮城県で14人が亡くなった(16日現在)。私たちは災害列島の住民であることを改めて思い知らされる。同時に、東日本大震災の教訓は生かされなかったのか?暗澹とした想いにとらわれる。
災害から4日目の朝、大郷町粕川(おおさとちょうかすかわ)地区に足を運んだ。仙台市の北に位置する農村だ。一級河川の吉田川が氾濫し139戸が浸水した。ほぼ水は引いていたが、あちこちに車が横転し、被害を受けた家財やゴミが積み上げられている。8年前の東日本大震災で沿岸部で目にしたのと同じ光景が拡がる。潮水の匂いがしないのが違うだけだ。災害は場所を選ばない。

地区内の道路は寸断されて車では近づけない。遠くの道路に片側駐車しておよそ2キロを歩いて向かった。大きな荷物とナベを抱えた3人連れの女性に出会った。自宅の片づけをしている男衆に、避難先で作ったおにぎりと汁物を届けると言う。年かさの女性の荷物を持ってやり15分ほどの道のりを一緒に歩いた。「ここは車が通れたのに」と言う。がれきをよけながら歩いた生活道路は簡易舗装がはぎ取られ、あちこちに深い水たまりができていた。
着いたのは数年前まで美容室を営んでいた木皿栄子さん(きざらえいこ)さん(84)の自宅。お孫さんの仲間10人ほどが流れ込んだ泥のかき出しに追われていた。
DSC_0973.JPGDSC_0974.JPG堤防の決壊箇所からは150メートルほど。あふれ出た水は床上1メートルほどの高さまでになった。タタミや多くの家具が使えなくなった。ふとんや衣類などもほとんどだめ。女性たちがこれから整理する。まわりの家もほとんど同じ状態だ。「どのくらい経てば、ここでまた暮らせるようになるのか?」木皿さんは顔を曇らせる。

吉田川は地元の住民には「暴れ川」として知られていた。最近だけでも、1986年8月の「8・5豪雨」で大きな被害を出したほか、2015年9月にも氾濫した。

家族5人で暮らしていた木皿栄子さんは12日の午後4時、雨が本格的に降り出す前にまちが指定した幼稚園に避難したという。大郷町が高齢者や移動が困難な人たちの避難を呼びかける「避難準備指示」を出したのは12日の午後1時55分だった。
「8・5豪雨では家の軒先で洪水は止まった。しかし、私たちはなにかあればともかく避難といことが身に付いています」木皿さんはこう話す。

決壊したのは吉田川の左岸。国土交通省が重機を入れて復旧工事に取り掛かっていた。27日には工事を終えるという。
DSC_0988.JPG決壊箇所から70メートル足らずの距離にあるのが、障がいのある子どもたちの放課後等のデイサービス施設「めるくまーる」だ。廃校となった2階建ての旧粕川小学校の校舎を利用したものだ。体育館もある施設には毎日20人前後の子どもたちが通ってきて、宿題などの学習やスポーツなどを楽しんでいた。
DSC_0993.JPGDSC_0992.JPG押し寄せた水は床上2メートルになったという。教室にはまだ床に泥がたまっていた。職員たちが泥出しをしていたが、再開の見通しはつかないという。代表理事の児玉幸司さんは「他の施設への移転も考えたが、体育館のあるメリットは代えがたい。できるだけ早くここで再開したい」と話す。

決壊した箇所の堤防は他の場所に比べ1メートル前後低かったという。大郷町の担当者は「地区の住民も含め国交省に改善を申し入れていた」と話す。
DSC_0998.JPG下流の大崎市の鹿島台地区では、まだ水が引かない状態が続いているが、あの日きばをむき出した吉田川はいつもの穏やかな流れに戻っていた。
低かった堤防が決壊につながったのかどうかはまだはっきりしない。しかし、粕川地区では亡くなった住民やけが人はいなかった。
大郷町では過去の水害を念頭に避難指示を早めに出したという。また、堤防が決壊したのが13日の午前7時50分。住民が気付きにくい夜間ではなかったのも幸いしたのではないかとの指摘もある。
大郷町の防災担当者は「東日本大震災後、住民たちが自主防災組織をつくって活動を続けていたのも早目の避難につながった」と話す。
東日本大震災で私たちが学んだ教訓とは、「まず命を守る」だった。大郷町に関してはこの教訓は受け継がれていたと言えそうだ。(了)

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