6月23日 大川小学校 語り部ガイド 「生き延びる未来を手に入れよう!」

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大川小学校で行われた語り部ガイドに再び足を運んだ。亡くなった74人の子どもたちの遺族を中心にした「大川伝承の会」の主催で、通算で24回目。毎回多くの方々がこの地に足を運ぶ。この日は、貸し切りバスで茨城からやって来た40人の団体など100人余が参加した。

共同代表の佐藤敏郎さんがこう語りかけた。佐藤さんは当時6年生だった娘さんを亡くした。
「ここはあの日を伝える場所であるとともに、震災からの8年を伝える場でもあります。校舎が語りかけてくれるものがあるはずです」
壁が津波でもぎとられ、鉄骨がむき出しになった校舎の周りには、スイートピーなどの花々が植えられている。教室の床は掃き清められていた。誰が決めたわけでもなく遺族の方々や、地区の元住民が交代でやってきた。周りの草むらは三重県からやって来たボランテイアグループが草刈りをしたという。
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写真上:右・共同代表の佐藤敏郎さん、左・同鈴木典行さん。
石巻市は校舎を震災遺構として保存することにしているが、それを待たずに「学校防災のあり方などを考える場」を整えたのは人々の力なのだ。
遺族の方々は「小さな命の意味を考える」と題した冊子をつくりこれまで7万部を配布してきた。今回その第2集ができた。語り部ガイドに参加した全国の人々の感想120篇が掲載されている。
「『子どもたちが生きたかった明日を生きている』という言葉が私の心に響きました」(兵庫・女性)。「大川小学校が”防災のランドマーク”として未来につながっていくことを切に願う」(東京・男性)
「大川伝承の会」のメンバーの想いは着実に拡がりつつある。

卒業生で大学生の永沼悠斗さん(24)は2年生の弟を亡くした。大川小の思い出を話した。
「中庭では一輪車で遊んだ。校庭の桜の花見にはシートを敷いてみんなでお弁当を食べた。あの3月11日、その前まであった日常を忘れることはできない」

鈴木典行さんの証言は聞くたびに悲しみが深まる。6年生の娘さんが亡くなった。多くの参加者がハンカチを眼にあてた。
「学校にいるのだから大丈夫と信じていた。震災の翌々日ようやく学校にたどり着いた。娘の名前を呼んでも返事はない。そろそろ帰ろうかとしたが、崩れ落ちた民家の屋根を引きはがすと2人の子どもが見つかった。スコップなどは使えない。みんな素手で土を掘り起こした。最後に娘が見つかった。気が狂うような想いで抱き上げた」

子どもたちは地震発生以来50分、校庭で待機させられた。時折雪が舞う寒さの中、おもらしをしたり、吐いた子もいた。ラジオが津波の襲来を伝えるなか、恐怖はつのるばかりだったと推定される。「ここにいたら危ない、裏山に逃げよう」という子どもたちもいた。学校に様子を見に来た保護者の何人かもそう主張した。しかし、11人いた先生方は動かなかった。

避難を開始したのは津波襲来の1分前。市の広報車が「津波が松林を越えて押し寄せている。逃げて下さい」と拡声器で伝えて走り去ったのがきっかけだった。しかし、避難は津波が押し寄せる北上川沿いの「三角地帯」へ向かってだった。子どもたちの列を波が襲った。亡くなった74人の子どもたちのうち34人が裏山の麓に生き埋めになっていた。
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写真上:永沼悠斗さん(24)。
参加者全員で裏山に登った。津波が到達した地点までは1分程度で全員が楽に登れた。大川小では裏山でシイタケ栽培の実習授業をやっていた。子どもたちには”通い慣れた”裏山だった。
11人の先生のうちただ一人助かった教務主任は当日の事情を語ることなく口を閉ざしている。当日、休暇を取っていた当時の校長も語ることはない。

50分間、校庭にとどまり続けたのは何故なのか。救えたはずの74人の子どもたちを救えなかったのは何故なのか。8年経ったいまも闇の中だ。
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佐藤敏郎さんはこう強調した。
「つい先ごろ、山形・新潟を震度6強の地震が襲った。地震・津波が来る未来は変えられない。しかし、生き延びる未来を私たちは手に入れられるはずだ」

大川小・校歌「未来を拓く」と歌った子どもたちを失った皆さんの悲しみは、8年経っても癒されることはない。私たちはそこから何を学ぶべきか。それは少し”ずつだが拡がりつつある。(了)

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