5月2日 東松島市野蒜 ”こころの壁越えて” 震災を語り継ぐ若者たち

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東松島市の旧野蒜小学校の校舎を改装した防災体験型宿泊施設「KIBOTCHA=キボッチャ」。東日本大震災の体験を語り継ぐ活動をしている、大学生らが語り合う「若者トーク あの日のいろんなこと」が開かれた。震災伝承に取り組む個人や団体でつくる「3・11メモリアルネットワーク」の主催。男女8人の若者が体験や想いを熱く語り、30人の”大人たち”が耳を傾けた。

石巻市渡波(わたのは)の渡辺雄大さん(大学1年)は小学校4年の時に震災を体験した。車で家族で避難する途中津波が押し寄せてきた。どこかの男の人がおぶって安全な陸橋に運んでくれた。「こわくてたまらなかった。流されていく車の上には人がいる。家も次々流されていく。力のない僕は誰を助けることができなかった。無力感にとらわれた」。

生々しい記憶を渡辺さんは語った。
東松島市大曲で小学校5年の時に被災した雁部那由多(がんべなゆた)さん(大学1年)の体験も痛切だった。
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写真上:右が渡辺雄大さん。左は武井友佑さん(18)。写真下:雁部那由多さん。
雁部さんは大曲小学校で震災にあった。学校の指示で3階に避難したが、勝ってもらったばかりの靴を取りに通用口に向かった。子どもにはありがちな行動だ。そこに津波が押し寄せてきた。水道栓につかまってなんとか流されずにすんだ。
「避難してきた男の人が1~2メートル先で波にのまれた。手を伸ばしてきたが、水道につかまるのがやっとで、手を伸ばすこともできなかった」。

8年経ったいまも、さわれば赤い血が流れてくるような痛切な記憶を、それぞれの方々が抱えていることに改めて気付かされた。
こうした体験を語るには、ある種の心の壁を越える必要があったことも明らかにされた。

雁部さんはこう明かした。
「(通用口)での状況はしばらく封印していた。小学校では大地震・津波・マグニチュードとい言葉が出るだけでクラスがパニックになった。体験を語ることはタブーだった。しかし、『震災体験は持っているだけではいやな思い出。伝えることで命を救える』、こう考え語り伝えることを始めた」。
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写真:左が阿部こころさん(大学2年)、右が司会役の佐藤敏郎さん(大川伝承の会共同代表)。
阿部こころさんは大学で心理学を学ぶ一方、「女川さいがいFM」のパーソナリテイを務めている。こう話した。
「震災から目をそむけている時期もあった。両親が震災当時どんな苦労をしたかについても話を聞いて、今後の語り部活動にも生かしていきたい」。

石巻市渡波で震災を体験した渡辺さんも、亡くなった級友の自宅跡地を、3年前に訪れたことが語り継ぐ活動を始めるきっかけだったという。「『俺のことを忘れないで』、と呼びかけられた気がした」、こう打ち明けた。

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参加した地元、野蒜が丘に住む主婦もこう発言した。
「義母が震災で亡くなったが、そのことについては夫ともいまだに話をできないでいる。私は、ここ旧野蒜小学校に避難して助かったが、周りには当時のことを話せないという人が少なくない」。

野蒜小学校には住民などおよそ300人が逃げ込み、校舎ではなく体育館で待機した。ところが松林や東名運河を越えて押し寄せた津波が、体育館に流れ込んだ。人々がステージや2階の観覧席に通じる階段に殺到したが、逃げ遅れた10数人が亡くなった。

震災から8年2か月。日本社会は1年後のオリンピックに沸く。しかも「復興」の冠がつくという。加えて改元のフィーバーである。
様々な壁を越えて、震災を語り継ぐ若者たちは輝いていた。
東京から参加したという女性の中学教師がこう問いかけた。「防災意識も、災害に対する危機感も乏しい首都圏中学生にひと言で心に届くメッセージをもらいたい」。

若者たちからはきっぱりとこんな答えが返ってきた。
「思い出と命だけを持って逃げて下さい。命と思い出があれば未来を築けます」。(了)

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