11月1日 女流文学者・只野真葛と荒浜~二百年の時空超えた訪問記

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江戸時代の後期、文化・文政期に仙台藩で執筆活動を続けた女流文学者・只野真葛(ただの・まくず)(1763~1825)は、仙台市の荒浜を訪れ紀行文を残している。「ながぬまの道の記」である。震災で大きな被害を受けた荒浜。元住民たちでつくる「荒浜再生を願う会」が、真葛とのつながりを考える集いを開いた。真葛研究の第一人者で愛知・大府市在住の門玲子さんと、作家の勝山海百合さんがゲストで参加した。
門さんは震災前の1999年取材行で荒浜を訪れた折、道端で咲いていた野菊一株を持ち帰り「真葛菊」と名付けて育ててきた。その中からもってきた3株を、元住民たちの活動拠点である「里海荒浜ロッジ」の庭に移植し、「真葛菊」が里帰りした。学名は分からないが紫色の小さな花が咲く。住民たちによるとどこにでも咲いていたが、震災後はほとんど見かけなくなったという。

門玲子さんはこう話した。
「18年前に訪れた時には海岸沿いに立ち並んでいた松林がすっかり姿を消し、被害の大きさに胸が痛んだ。『真葛菊』をいつか里帰りさせたいと考えてきた。ふるさとの緑の再生に少しでも役立てればと願っている」。
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写真上:左が門玲子さん、右:勝山海百合さん。写真下:只野真葛「奥州ばなし」(勝山海百合・現代語訳、荒蝦夷、2017年3月)。
真葛は仙台藩の医者で、ロシア事情などにも触れた「赤蝦夷風説考」の著作もある工藤平助の娘。35歳の時に、石高1200石の大身家臣である只野伊賀と再婚し著作活動を続けた。晩年に書いた「独考(ひとりかんがへ)」は、社会や家族のあり方などを論じたユニークな思想書。当時の売れっ子作家、曲亭馬琴に添削・出版を依頼したが果たせなかったというエピソードも残る。

研究者以外には広く知られることがなかったが、このほど出版された「奥州ばなし」で私も眼を開かれた。親戚や知り合いからの聞き書きで、狐や化け猫、奇人変人が登場する怪異譚を集めたもので、柳田国男の「遠野物語」のテイストがある。もう一人の自分の姿を見てしまい、間もなく亡くなる「影の病」などは芥川龍之介も注目していた。

紀行文も「塩竃もうで」や、「松島の道の記」などの作品があり、荒浜を訪れた「ながぬまの道の記」もその一つである。
ナレーターの関口幸希子(ゆきこ)さんが、勝山海百合さんの現代語訳を朗読した。
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友だちと連れ立って地曳網を見に出かけるというもの。前夜は脚絆(きゃはん)を縫ったり、「破籠(わりご)」という弁当箱を用意したと綴る。小旅行を前に浮き立つ気分が伝わる。

『浜辺に行き着くと、魚は浜の真砂にまみれたままで、~~まずは海を見ます。目が届く限りより大きな海原から波が立ち上がってくる様子、たいへんに清らかで異様であります。破籠を取り出してあれこれするうちに雲も見えなくなっておりました。』
只野家の屋敷は現在の仙台二高付近。夜明けに出発し、帰宅したのは戌の刻(午後8時)すぎだった。一日がかりのピクニックだった。

荒浜の海や、漁の様子を生き生きと描き出した二百年前の訪問記に人々は聴き入っていた。
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江戸時代はとかく士農工商の身分社会が固定した停滞した社会とされてきた。明治の薩長藩閥政府が自らを正統化するため、先立つ時代を「暗黒時代」と国民を教化したためである。しかし、日本の急速な近代化を用意したのは、江戸時代の高度の商品経済や、教育水準の高さだというのが近年の通説である。
只野真葛というユニークな女性が活躍しえたのもこうした文脈で理解すべきなのだろう。蘭学系の学者に囲まれた生育環境が大きな要因であることは勿論である。

ただ、仙台藩は江戸期を通じて中世的な支配体制が一部残っていた。こうした中で、真葛のように開明的な女性が活躍できたのは、なぜなのかは興味深いテーマだ。そういえば、近代に入っても仙台からは、インド独立運動のチャンドラ・ボースを支援した相馬黒光や、情熱の歌人・原阿佐緒など”跳んでいる”女性を輩出した。
真葛の残したDNAであろうか。こう想像するのも楽しい。(了)

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