6月20日 仙台市蒲生 ”在宅被災者のきづな” 8年続く「手仕事グループ」

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宮城野区蒲生の民家の一室で5人のご婦人たちが、手作りの腕カバーの袋詰め作業に追われていた。「つぎはぎすべっ茶」、仙台弁で”つぎはぎしましょう、お茶を飲みながら”という手仕事グループの定例会だ。腕カバーはシャツの袖口がぬれたり、汚れたりしないよう袖口を覆うもの。はぎれを縫い合わせて作った。30セットの注文が舞い込み発送準備をした。
このグループは蒲生字東城道田(ひがししろみちた)の庄司恵子さん(65)の住まいで、震災の半年後2011年10月にスタートした。当初は母屋の2階でのお茶っこだったが、趣味を生かした手芸に取り組むようになった。

グループのリーダーで、家主の庄司恵子さんは在宅被災者だ。
在宅被災者は避難所や仮設住宅を健康など何らかの事情で利用できず、やむをえず壊れた自宅を修復して住み続けた人々である。この場合、修復費用への公的支援が少ないなどの格差がある。
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「津波で家が壊れた。心に穴もあいた。つぎはぎで癒そう」というのが会の名前の由来だという。庄司さんの家の敷地内にある作業小屋で、原則毎週木曜日に定例会を開き小物入れや、バッグなどを手作りしている。多い時には18人ほどだったメンバーも減ってきたが、8年たった今も7~8人が毎週集まってくる。

庄司さん宅は海岸に平行して走る県道塩釜・亘理線沿いにあり、北側300メートル行くと七北田川だ。
2011年3月11日、津波は2方向から押し寄せてきた。津波は周りの住宅より高く2メートルを越えたという。ブロック塀や土蔵があって敷地内がため池のような状態になったためだ。津波は1階の天井近くまで達した。

建築資材の製造・販売会社を営んでいた夫の二千夫(ふじお)さんは当時70歳。以前から患っていた胆肝がんが悪化し、下痢や吐き気の症状に悩まされていた。近くの岡田小学校の避難所へ行ったが、トイレなど病身にはとても耐えられない環境だった。
同じ仙台市内の娘さんの家や、会社の事務所などを転々とした後、4月1日から自宅の2階で住み始めた。2階は津波の被害を免れた。ライフラインがようやく戻ったが、水道を使えるのは1階だけ。階段を上り下りする生活だった。屋根瓦も大きな被害を受け、屋根をブルーシートで覆ったままの生活が続いた。

ボランテイアの手を借りて1階の泥出しをした。震災から半年ほど経ったところで家の修理に取り掛かった。屋根が大きく壊れていたので費用は1000万円を超えた。行政からの支援は200万円余だけ。融資を申し込んだが夫が70歳を越えていたため断られた。JA共済や蓄えを取り崩してまかなったという。
夫の二千夫さんは闘病の末、2年半後に亡くなった。
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家の修理に公的支援が少なかったのに加え、仮設住宅住まいの被災者には日赤から支給される家電6点セットは対象外。冷蔵庫、テレビなどは量販店で安いものを探して買いそろえた。

それ以上に困ったのは行政からの被災者向けの情報が一切届かなかったことだという。避難所や仮設住宅だと配布される、支援の食料や衣類などは無縁だった。おにぎりひとつ、タオル1枚もらっていないという。
2階での生活がさすがに不便で、寒さに向かうことから仮設住宅への入居を申し込んだことがあった。ところが、すでに満杯だと断られたという。募集についても行政から通知があった訳でなく、人づてに聞いたものだった。

階段の継ぎ目がずれたり、2階のサッシ窓がすき間あいたままで家の修理は十分とは言えない。庄司さんは独り暮らしなど何とか住めるので、このままで仕方ないと言う。動物愛護センターからもらってきた猫のシーちゃんと暮らす。
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「つぎはぎすべっ茶」は、情報から取り残され、孤立した状態にあった在宅被災者同士が立ち上げた語り合いの場だった。今集まってくるメンバーにも庄司さんと同じ在宅被災者の立場の人がいる。
庄司恵子さんはこう強調する。
「病気や家族の事情などで、避難所へ来れない人、仮設住宅に入居できない人は必ず出てくる。こうした人も被災者であることに変わりはない。行政はこうした在宅被災者の人もきちんと把握しない限り、被災者を救済したことにはならない」

こうした在宅被災者は民間団体の推定で宮城県で6万世帯。このうち1万世帯は修理が十分でないままの家に住み続けていると推定される。宮城県など行政はこの点についての調査をしてないからである。(了)


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