7月3日 宮城・吉岡宿 辛苦のすえ”1000両の基金で”集落救う~江戸期に輝いた自治の精神

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磯田道史「無私の日本人」(文春文庫)を読んだ。気鋭の近世史研究者による歴史小説。第1篇「穀田屋十三郎(こくだやじゅうざぶろう)」に驚かされた。筆者の住むところから北西に10キロ余、車で15分とかからぬ大和町(たいわちょう)吉岡で、明和年間・1700年代の後半にあった実話だが、寡聞にして知らなかったからだ。舞台となった吉岡を訪ねた。写真は十三郎らの顕彰碑である。
話はこうだ。
吉岡宿は米どころの仙台平野にあっても、比較的水田が少なくむしろ宿場の商業のまちだった。民は重い年貢に加えて、伝馬役(てんまやく)の負担にあえいでいた。藩が公用で街道を往来する際に強制的に徴発する費用のことだ。宿場町の吉岡は他の集落に比べこれが多かった。
仙台藩ではこのままでは宿場が疲弊するので、伝馬御合力(おごうりき)という助成制度をつくり、宿場に金をくばった。ところが、吉岡は伊達家の家臣の領地で、藩の領民ではないから合力はもらえないとされた。吉岡の民は助成制度にも預かれず、取られるだけの苦境にあった。

この時期仙台城下の工事に必要な材木は、近場のものを切りつくし遠方から調達しなければならず、伝馬役は増える一方だった。公共工事が増え、住民が疲弊する。今も同じ光景が続いている。家産をつぶして集落から消えていく住民が増えた。家数が減れば1軒当たりの伝馬役はさらに重くなる。
このままでは吉岡宿が消える!同じようなフレーズが今もささやかれる。

仙台藩は開祖の政宗以降は、総じて暗愚な治世が続いたとされる。藩財政は「江戸の米の3分の1は仙台米」を守るため、飢饉でも米を江戸へ送るのに腐心した。経済原則が最優先だった。米どころでありながら、飢饉のたびに数万人の領民が餓死するという考えられない事態が続いた。住民を犠牲に中央に奉仕する。
私たちは今も悪い夢を見続けている。
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 写真は事件を記録した「國恩記」、同じ吉岡の曹洞宗・竜泉院八世の僧侶栄洲瑞芝(えいしゅうずいし)が書き残した。(「國恩記顕彰碑建立記念誌」から)
集落消滅を何とか回避したい。穀田屋十三郎や、菅原屋篤平治ら吉岡宿の有力商人が思いついたのは、藩がやってくれないなら伝馬合力のシステムを住民独自でつくろうということだった。1000両の基金を何とかして工面し、お上である仙台藩に貸し付ける。毎年、1割の利息を住民に配分するというものだ。
仙台藩は参勤交代や、公事請負などで財政がひっ迫している。大商人からの借り入れだけでは足りず、のどから手が出るほど資金不足だ。支配勢力の弱みに目をつけるとはなかなかの才覚。問題はどうして基金をかき集めるかだ。

1000両といえば1億3000万円(1両=13万円で換算)。しかし、彼らの決意は固かった。家財や家屋敷を抵当に入れた。「夫婦ともども年季奉公になってもかまわない」との覚悟で、周囲を説得して同士を9人に拡げた。ついに1000両の基金をかき集めた。
藩への申し入れ、交渉も波乱があった。何しろ例がないこと。窓口の代官に願い出たところ「これは別の代官に相談せよ」との回答。
磯田は言う。「たらいまわしのはじまりだった。江戸時代はかつてないほど行政の手続きを複雑にした時代だった」。これが当然のDNAのように近代日本の官僚システムに引き継がれた。

しかし、訴えに格別の理解を示す代官の働きなどによって、吉岡宿の住民たちの申し入れを仙台藩は受け入れた。
年々1割の利息が払い込まれた。住民たちは公平に分配した。一時中断もあったが、明治期まで続いた。
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九品寺(くほんじ)に建てられた9人の顕彰碑。
大和町の図書館や教育委員会に尋ねたが、顕彰碑の場所は分からないという。9人の多くの菩提寺・九品寺に当たりをつけて訪ねた。この町のシンボル「七つ森」を遠くに望む場所に碑が立っていた。突然の訪問にもかかわらず、住職の二幡俊道(にはたとしみつ)さん(67)が案内してくれた。
地元でもこの話はほとんど知られていなかった。何とかこの事跡を後世に伝えようと、有志が12年前に顕彰碑を建てた。本の出版を機に、大和町教育委員会は児童向けに副読本をつくる。映画化の動きもあるという。

著者の磯田はこう書いている。「江戸時代、とくにその後期は、庶民の輝いた時代である」。

明治以降の学校教育の中で私たちは、江戸時代は鎖国に加え、士農工商の身分制度が定着した暗い時代だと教えられてきた。これは明治政府、いや正確には薩長藩閥政府が自らの正統性(レジテイマシー)を強調するため、前時代をあえて暗い時代だと教え込んできたためなのだ。実は江戸期を通じて、支配階級の武士を除く庶民の間には「住民自治」が広く存在していた。それを圧殺したのは、近代化と、富国強兵を急いだ薩長藩閥政府に他ならない。
住民自治の精神が、吉岡宿の9人の艱難辛苦の行動を支えていたのである。

江戸期にあっても一部、中世的な統治システムが残っていた仙台藩で、このような庶民の知恵や工夫、自治の精神が息づいていたことに感動を覚える。
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写真上;二幡住職の案内で穀田屋十三郎の墓碑をみる。
穀田屋十三郎の墓碑は高平家の墓所の後ろの方に隠れるように建っていた。9人の”同士”のなかでは唯一、十三郎の子孫にあたる人が吉岡の中心部でいまも酒店を営んでいた。
歴史家の書く小説は史料にきちんとあたっているので安心して読める。同じような例としては近代史の大江志之夫さんの「凩の時(こがらし)」などがある。今回もそうだった。
「無私の」というタイトルには違和感を覚えた。吉岡宿の9人も決して「己を無にした」わけではない。負の遺産を孫子の残すわけにはいかないという切羽詰まった想いがその行動を支えた。その意味ではアイデンテテイを守る闘いだったのだ。

この国の指導者は歴史に学ぶことを忘れ、いや、学ぶことをあえて避けている。あまつさえ、平気でうそを言う。IOCでの五輪招致のスピーチはその一つ。さらに、専門家がクロと言っているのを、シロと言いくるめる。間違った思い込みから国会でヤジを飛ばす。
誤った指導者のもと、かつてたどった破局の途を歩むことは誰も望んでいないはずだ。いま私たちに求められているのは、江戸期に輝いたような「アイデンテテイを守る」闘いなのだ。
タイトルはせめて「江戸期に輝いた名もなき庶民」としてほしかった。(了)


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この記事へのコメント

坂本京子
2016年01月23日 17:19
正月にNHKで放映されたザ・プレミアム「歴史エンターテインメント“大江戸炎上”」で保科正之を紐解く磯田道史さんに関心を深め、「無私の日本人」を読みました。何度も鼻をすすりながら読みました。私も、書名だけが気に入りません。
吉岡宿へ一度行きたくなり、ネットを行き来していて、このブログに行きつきました。いい記事でした。
名も無き庶民
2020年05月10日 17:19
映画「殿 利息でござる」…を見ました。
初めはパロディ?かと思いきや、己の損得を…決して無心ではないにしろ穀田屋さんの精神を種に宿場町存続に奔走した内容に感動しました。

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