3月31日 仙台市井土 ふるさとの記憶 語り合う~海辺の暮らしもあと半年   

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仙台市若林区井土の加藤新一さん(73)のお宅を訪ねた。加藤さんの家は県道塩釜・亘理線の海側にあり、一帯は災害危険区域に指定されている。4年前の3月11日、津波で住宅はことごとく流されたが、コンクリート造りの加藤さんの家は流されずに残った。しかし、海側の壁は破られ、部屋の中には松の木が何本も流れ込んでいた。友人たちの手を借りて材木を取り除き修復した。震災の翌年、2012年4月から奥さんのつる子さんと一緒にここに住んでいる。
この日は友人の庄司壽夫(としお)さん(75)、大友宮子さん(70)が久しぶりに顔をそろえ、ふるさと・井土の暮らしや歴史を話してくれた。二人はともに井土を離れて内陸部で暮らしている。

井土には貞山運河とそれにつながる名取川、井土浦川の恵みを受けた暮らしがあったという。シジミやハゼが食卓を飾った。庄司さんは漁業権を持っていて貞山運河でウナギを獲っていた。「かぎ針」という先のとがった、細長い金属の棒で泥の中をかき回してウナギを引っかける特殊な漁法だ。干満の潮位差が80センチほどもあったので、長いものと短い「かぎ針」を備えていたという。

海岸沿いに拡がる松林も海辺の暮らしの中心だった。
松林は国有林。勝手に下枝を採るなどはできないが、「松葉さらい」の日が決められていた。住民がこぞって松林で枯れた松の葉を拾い集める。集めた松葉は等分に分けて、各家庭で炊事などの燃料にした。長さ80センチ、直径5~60センチほどの束が200もあれば、1年中使っても燃料に不足しなかった。

松林ではキノコがよく採れた。アミッコ(あみたけ)や、キンタケ、ハツタケ、ショウロなど。秋には毎日のように食卓にのぼった。「あまり食べさせられて、キノコが嫌いになる子どももいた」。笑い声が上がった。
「六郷を探る会」の会長で、郷土史研究を続ける庄司壽夫さんが言った。「松葉さらいもプロパンガスの普及とともに、昭和30~40年ころには途絶えた。松葉さらいを止めるととたんにキノコは採れなくなった。ある程度人間の手が入ることで、自然のバランスが保たれる」
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井土浦周辺の湿地はヨシやカヤの生息地だった。井土の住民は6班に分けられ、稲刈り、脱穀が終わると当番の班がヨシ刈りをした。良質のヨシは結構いい値で売れた。ヨシとカヤを組み合わせて住まいの屋根を葺いた。

「田舎の暮らしは”知恵を出す、口を出す、手も出す”が付き合いの基本」。加藤さんがこう言う。誰か困っている人がいれば集まって知恵を出す。口を出して批判もする。そのかわり、言いっぱなしではなく実際に手を出して手伝う。
しかし、震災前102世帯が住んでいた井土地区。いま住んでいるのは加藤さんを含めて6世帯にとどまる。多くの住民が別の地区で住まいを再建する意向だ。

せめて、こうして時折集まってふるさとへの想いを語り合う場所にしたい。震災後も、加藤さんがあえてここに居を構えた理由の一つだ。老人クラブやカラオケクラブの新年会や、パーテイを何度か開いてきた。
しかし、今年の9月には息子さんが宮城野区内に建てる住まいに引っ越し、この家は取り壊すことにした。家のすぐ近くを通る県道塩釜・亘理線が高さ6メートルにかさ上げされる。工事が終わると2線堤の役割を果たす道路の外側に取り残される。移転を決めた大きな理由だ。
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話の合間をぬって奥さんのつる子さんが台所に立って、3色のおはぎをご馳走してくださった。胡麻とつぶあん、茶色のおはぎは落花生=ピーナッツをすりつぶしたもの。このとろみはどうやって出す?絹ごし豆腐をすったものを混ぜる。奥さんが秘密のレシピを明かしてくれた。
きんぴらごぼうもまた独特。普通より2倍以上も太いがやわらかい。まず煮たあとに炒めるのだという。お酢が隠し味。きゅうりの漬け物も程よい塩味だ。どれも暮らしの年輪を感じさせる味だった。

七北田川から名取川にかけて、仙台市が指定したおよそ1200ヘクタールの災害危険区域内で、いま住んでいるのは加藤さん夫妻と、荒浜地区で喫茶店「希望」を経営していた会社員、佐藤喜美夫さん(58)の2世帯だけだ。喫茶店は昨年9月で閉店した。かさ上げ道路の用地にかかるからだ。

佐藤さんも今年9月には宮城野区内の集団移転用地に引っ越す。奇しくも、加藤さんと同じ移転用地だ。有無を言わせぬ”復興”行政は海辺で暮らしたいというささやかな夢を押しつぶしていく。(了)

この記事へのコメント

ノリベー
2019年03月08日 06:18
今朝 ラジオで 雄勝町の 徳光先生の話しを 聞きました。私の弟も 先生で 郡山の学校でした。津波は 無かったものの 原発 被災で 暑くても 子供たちを 外には 出せない、教室の窓も 開けられない、勿論 エアコンなどは 無いから。
子供たちの事 先生たちの事 それに加え校庭のじょせんの為に 土を 掘る作業。

子供たちを 守る、先生方を 守る事。とても
ひと口では 話せない事だったのでしょう。
徳光先生の話しを 聞きながら 当時の情景
を 思ってました。
復興? 富岡、浪江町を 去年 訪れました。
廃虚 大袈裟な 表現では 無い。
フレコンバックも 山積み。
復興は まだまだ、 でも 前向きに 歩く事ね。少しづつでも 明日を 信じて 歩きます。

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