9月1日  多賀城市山王遺跡  鑓水(やりみず)遺構のある国司館跡 ~ 貞観大津波の痕跡?も発掘

画像

山王(さんのう)遺跡は特別史跡多賀城跡の南側、方形の街路で区切られた奈良~平安時代の街並み跡だ。今回は三陸自動車の拡幅工事に伴い、道路沿いに10メートル幅で、南北600メートルの区域の発掘が行われた。現地での発掘説明会に足を運んだ。
多賀城政庁跡に近い北の区域では、鉤の手状の折れ曲がるように人工的に作られた流路、鑓水の跡が姿を現した。鑓水は貴族の庭などに作られ、和歌を書いたものが上流から流れてくるまでに歌を詠む曲水の宴などが行われた。こうした鑓水を備えた庭園は地方ではごくまれ。従って。この区域は中央から派遣された国司と呼ばれる、中・下級官僚の館跡と考えられるという。この区域では、土師器(はじき)や須恵器(すえき)など、宴会などに使われた
と見られる、多くの土器も出土した。
政庁にも近い所から、街並みの中でも一等地と見られることからも頷ける。陸奥の場合、国司は7人派遣されていた。守(かみ)=長官1人、介(すけ)=次官1人の他、大掾(だいじょう)・小掾各1人、大目(だいさかん)1人、小目2人の合わせて7人だ。しかし、官位の特定は難しい。
画像
画像
画像

写真は上から鑓水遺構、竪穴住居跡、それに洪水に覆われた水田跡。貞観津波の跡か?指さしているのが火山灰の堆積。
さらに南側に進む。貞観11年(869)の陸奥国大地震・大津波からの復興期に新たに1辺108メートルの方形の道路が建設されて拡がった街区である。この区域では竪穴住居の跡が多数発掘された。中には、掘っ立て柱で補強して5間×2間という大型の建物もある。国司館を支えた兵士や工人の居住区と考えられる。大型の建物は兵舎か。
9世紀後半から10世紀にかけてのこの時期は、東北北部の蝦夷(えみし)との戦争に備えて、坂東(いまの関東)から多賀城へ、兵士や物資の集結が進められていた。

さらに、南へ100メートルほど足を運ぶと水田跡だ。街並みは官僚たちの住む高級住宅地、兵士や工人の居住区、住民の食糧を栽培する農地と区画されていた。
この水田跡を縦に掘り進める。トレンチという。耕土とは明らかに違う砂層が15~20センチの厚さで姿を現した。厚さ5センチ程度の灰白色の地層のすぐ下である。東北地方の地層は、ほぼ全域で火山灰の層が発掘される。延喜15年(915)の十和田火山の噴火に伴う降灰である。
あまり知られていない事実だが、歴史年代の日本列島で起きた最大規模の噴火は十和田火山噴火である。カルデラ湖である今のt小和田湖の南部の火口が噴火し、実に50億トンものマグマを噴出した。1991年の長崎県・雲仙普賢岳の噴火の4億トンに比べると、その大きさが分かる。秋田県側に流れ出たマグマは、多くの集落を呑み込んだ。

その下の洪水跡と見られる砂層は、かつてこの場所を流れていた砂押川の洪水跡とも考えれられる。しかし、年代的に考えると最近注目を集めている、貞観11年(869)の津波跡である可能性が高い。宮城県教育委員会では科学分析を進めているという。
少なくともM8,3という貞観津波は仙台平野の奥深くまで浸水した。仙台平野の他の地域では発掘調査で津波の痕跡が確認されている。当時の史書「日本三代実録」は、「津波は多賀城下を襲い、溺死1千」と伝えている。今回の砂層が津波の痕跡と確認されれば、この記述が裏付けられることになる。

今回の震災で多賀城の遺跡は津波の被害を受けなかった。当時に比べ、その後の堆積作用で地盤が1,5メートルほど高くなっているからだ。海岸線が当時より遠くなったこともある。
しかし、内陸部の街というイメージの強い多賀城市の市街地も、かなり広範囲に津波の被害を受けた。仙台港から3キロほど内陸の市街地まで津波は浸水した。犠牲者も他の自治体より少ないが、それでも180人を数える。

それにしても、私たちの祖先は1000年以上の昔から、いつも地震・津波の脅威にさらされ続けてきたのだ。地震・津波列島に住まう私たちの宿命を思う。こうした歴史研究も今後の防災・減災を考える上で欠かせないのは言うまでもない。(了)

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック

  • レイバン 店舗

    Excerpt: 9月1日  多賀城市山王遺跡  鑓水(やりみず)遺構のある国司館跡 ~ 貞観大津波の痕跡?も発掘 震災日誌 in 仙台  /ウェブリブログ Weblog: レイバン 店舗 racked: 2013-07-06 07:57